ドイツで学び直したこと

Autor わたにい

ドイツで学び直したこと

2024年の5月。3週間ドイツに行ってきました。私の専門は元々ドイツ文学で、ドイツは私のアイデンティティーと言っても過言ではありません。計10か所の多様な園や小学校、環境教育施設を巡りましたが、今回の目的は視察というより、「つながりをつくること」でした。

ドイツ・ヴュルツブルクという美しい古都から40分バスで揺られ、向かった先は視察先の一つである「農場幼稚園(Bauernhofkindergarten)」。ここは、農場を真ん中に置いた「暮らし」を大事にしていて、朝から子どもたちは大人と一緒に動物にエサをあげたり、野菜を切ったり、バークを運んで道を作ったりしていました。この光景から、私が園長先生に、「子どもたちは朝、せっせと仕事(Arbeit)しているんですね」と伝えると、怒られてしまいました。-「これはね、仕事じゃないの。子どもたちは私たち事を楽しんでいるでしょう。これは立派な生命維持活動なのよ!」- この言葉を受けて私は衝撃を受けました。「仕事」という言葉がもつ「恣意的な」イメージが僕にはあったのですが、ここの「暮らし」を守るために、子どもたちは大人と共にあるということ。それは、強いる強いないではなく、「理屈ではないもの」に目を向けていくことこそ、人間がつい忘れがちな大事な生業なのだということでした。これをとても大事に守っていこうとする「暮らし」が、この農場幼稚園の軸なのだと、認識しました。

園長先生は言いました。-「今の人々は、あらゆるつながりを欠いている。つながりに生かされているはずなのに、それを見ようとはしない。安易な方法で、効率的に得ようとする。例えばお金を払えばなんでも買えるけれど、誰が作り、どんな想いがこもっているのか知る由もない。安易さはプロセスを簡単に飛び越えていく。そのプロセスにこそ、つながりがあり、ここを語れることが、教育ということだ」-

この園長先生との出逢いを通じ、私自身大いに反省だなと思いました。今私は、ちいろばを通して、子どもたちに何を伝えたいんだろう、何をつなげたいんだろうと今一度問い直す機会を得られたこと、これはとても貴重な財産となりました。

自分の「命を育む」ための「理屈ではないもの」にまなざしを向けていく、そしてそこに浮かんでくる「つながり」を丁寧に感じ取っていく。それはちいろばにとっても、例外ではない、私たちの存在意義にもなりうるキーワードだと感じ入っています。例えば、私たちの暮らしの中で「火」は欠かせません。なぜなら、調理ももちろんですが、冬が寒いからです。マイナス15度をも下回る日もある中で、私たちにとって「暖をとる」というのは、大事な生命維持活動です。このために、「薪をつくる」という行為は、まさに「私たち事」です。薪は突然には生まれてきません。「薪をつくる」ことを仕事だと思っていたのは、私の思い込みでした。これは仕事ではなく、私たちの「暮らし」にとっては「理屈ではないこと」なのです。ここに全員で目を向けていくこと、その為にできることをためらわず積極的に考えるようになりました。

そして「食」はまさに、とってもわかりやすい生命維持活動です。これなくして子どもはイキイキとは遊べません。「命を育むため」に、これは保育というより「人として」とても大事なことだと、改めて気づかされました。

「これから」

とはいえ、子どもが「強いられている」と感じれば伝わるものも伝わりません。そして、「三つの間の保障」が歪められてしまうのも本意ではありません。

私たちが立ち向かうべき課題は、いかに「ちいろばの食」を子どもたちにとって身近なものにしていくかです。そのために、日々の「暮らし」をもう一度再構築する段階にあると感じています。

 2025年度以降の「暮らし」を思う中で私が提案しているのは、朝の「暮らし」の始まりに「食がある」風景をつくろうということです。例えば、給食スタッフが外で野菜を洗ったり切ったりしている。今日子どもたちが「切ってもいい」野菜が、玄関に用意してある。ご飯は朝一、野外調理場で釜炊きの準備がなされている。そのために火おこしをするなど、「今日一日の暮らしは食を感じるところから始まる」という風景づくりを進めていきたいと考えています。また、食の歳時記をつくり、この地域のどのタイミングで、どの食を楽しめるかを視える化すること、そこから自分たちにできる「農的な暮らし」の実現も考えています。また、給食食材を、愛を持ってつくって下さっている作り手(生産者)の方々とも、より具体的に関わっていくことが必須だと感じています。子どもも大人も、作り手が日々どんな想いで野菜やお肉をつくっているか、どんな土に触れているか、どんな「暮らし」を営んでいるか、肌と肌が触れ合えるくらいの距離で感じていくこと、「本物」に触れていくことが何より大事なことだと思うのです。このプロセスを抜きにして、伝えていくことこそ難しいと感じています。

このようにして、「食」にまつわる風景が、子どもたちにとって空気のように身近にあり続けることが、シンプルかつ最も伝わる方法だと今では確信しております。

そんな風景を、大人が本気で創っていこうという後姿をきっと子どもたちが受け取ってくれるはずです。そして、それを受け取っていった子どもたちが、一つ一つ参加しようとしてみるという姿が現れた時に、私たちが丁寧にその世界をつないでいくという関わりを一日一日大事にしていく。そういう日々の紡ぎの上に、きっと「私たちなりの暮らし」=「文化」が自ずと生まれてくるとイメージしています。

 人が生きる上で取り戻さなければならないこと、考えなければならないこと、まさに「理屈ではないもの」に丁寧に目を向けていくこと、これからの時代にますます必要な観点だと考えています。保育という観点から考えれば、子どもの「遊び」とその保障は確かに大事です。ですが、保育における「暮らし」という観点から考えると、「暮らしを遊ぶ」子どもたちの姿を、今だからこそ私たち大人は、もっと信じていく必要があると感じています。「遊ばせなきゃいけない子ども」ではなく、「暮らしをも遊べてしまう子ども」です。「食」は、まさに私たちにとって「暮らすこと・生きること」を改めて考えさせてくれる重要なキーワードなのです。

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